南砺市の料理旅館 万水閣の周辺には、多くの観光スポットやレジャー施設があります。また、世界遺産「五箇山合掌造り集落」にもほど近く、当館を拠点にお楽しみください。
北陸最古の大人造湖 桜ヶ池。桜ヶ池周辺には、桜ヶ池公園、インラインスケートパーク、全国屈指のロッククライミングセンターなどスポーツや魚釣り(へらぶな、鯉、ワカサギ)など楽しみがいっぱいです。湖畔には、富山県と静岡県御前崎市にある「桜ヶ池神社」の一つがあります。旧陸軍の立野ヶ原演習場の「監的壕(トーチカ)」が現存しています。
城端と五箇山を結ぶ国道304号線から林道を約8km入ったところに縄ヶ池があります。水芭蕉(ミズバショウ)の群生地として知られ、標高800mの縄ヶ池は、自生の南西限とされています。縄ヶ池周辺にはその他にも、散居村を一望できる展望広場、昭和天皇の歌碑、鏡岩、縄ヶ池神社などが点在、クロサンショウウオも生息しています。世界遺産五箇山への行き帰りに立ち寄る価値はあります。万水閣からは、車で約40分です。通行には、十分注意してください。水芭蕉は、桜ヶ池の「水芭蕉広場」でも観賞できます。
浄土真宗大谷派の古刹。山号は廓龍山。1471年(文明3年)蓮如上人により加賀国で創建されましたが、その後、越中石黒の庄山本村、福光村へと移り、1559年(永禄2年)城ヶ鼻城主荒木大膳の招請により城端へと移りました。
境内は、荘厳な建築物が多く、また900点余にもおよぶ国宝級の寺宝物が保存されています。
寿栄の昔(約800年前)、権勢と栄華をほしいままにしていた平家一門が、屋島・壇の浦の合戦に敗れ、落人たちは安住の地を人里はなれた越中五箇山に求めて住みつきました。
その落人たちが,慣れない山仕事や農耕の合間に都での往時を偲んで、唄い踊ったのが「麦屋節」の始まりであるといわれ、哀調を帯びた旋律と風格ある踊りは、富山県の代表的な民謡として全国に知られています。 特に紋付、袴、白たすき、腰には刀といういでたちの若者が笠を巧みに操る男踊りは、歌詞のもつ哀調感とは対象的に、勇壮で活気に満ちており、「直線と曲線」「静と動」が見事に融合した踊りとして人気があります。
昔なつかしい水車を復元し、水車ウォッチングロードとして整備され、全国各地から訪れる人が絶えません。
地区内にある大小45基ほどの水車のすべてに歯磨き水車・蕎麦引き水車・曳山水車・蓮如水車などのカラクリが施され、見る人を楽しませてくれます。資料館もあります。
なお、水車は農作業の動力として40数年前から活躍しています。
毎年、5月5日に行われる越中の小京都・城端の春を彩る、城端神明宮の祭礼。先頭に立つ獅子舞と剣鉾が悪霊を鎮め邪鬼を払い、続く傘鉾が神霊をお迎えします。その後を庵屋台の情緒あふれる庵唄、伝統の城端塗の粋を尽くした曳山が続きます。夕刻からは提灯山となり、日中とは違う風情を楽しめるのも魅力。また、神様を迎える6箇所の山宿が見られる宵祭り(4日)も必見です。
2016年12月、「城端神明宮祭の曳山行事」が、国内18府県33件の「山・鉾・屋台行事」の一つとしてユネスコ無形文化遺産へ登録されました。
1995年12月、ユネスコの世界遺産に文化遺産として登録されました。
「合掌造り」と呼ばれる茅葺きの家屋は、国内の他地域にはない、五箇山と白川郷のみに現存する大変貴重な民家の形式です。
相倉(あいのくら)、菅沼(すがぬま)の集落があり、多くの観光客が訪れます。また、ライトアップ開催期間は、幻想的なふるさとの原風景に感動させられます。
340年余りの伝統をもつ、町を代表する祭り。20数本の行灯が若衆たちによってかつがれ、町を練り歩き、夜空が燃えるように染まります。
9月1日から三日三晩踊り明かす、おわら風の盆。哀調をおびた胡弓の音色が奏でる「おわら節」に合わせて街を流します。
220年余年の伝統を誇る井波彫刻を見学することが出来、実際に彫刻やクラフトなどの 創作体験と匠達の工房で伝統の技に触れることができます。
7,000平方メートルの広大な花壇に競うように花ひらく春のチューリップ公園。ゴールデンウィークには大勢の人でにぎわいます。
自然流水の落差を利用した、高さ36mにも上がる大噴水を中心に人々の憩いの場となっています。
スキー、スノーボード以外にもパークゴルフやジムカーナなど年間を通して楽しめます。ドックランもオープンしました。
『サクラクエスト』は、P.A.WORKS社制作による日本のオリジナルテレビアニメ作品です。
当館主は、万水閣が立地するここ桜ヶ池がモデルではないかと思っています。ここでは、当館の先代の館主が主観的に楽しみながら撮影した写真と、作品の中に登場したお祭りについてもいくつか紹介します。
(写真クリックで拡大します。)
「第25話 桜の王国」にて3分14秒ごろにお祭りのシーンが登場します。この祭りは、「福光の春祭り(宇佐八幡宮春季祭礼)」がモチーフになっているのではないかと考えます。
男たちがきらびやかな神輿を担いで町を練り歩き、見事な庵屋台3台と、獅子舞が舞い踊る福光春祭り。この祭りは、220年以上の歴史を持つ由緒ある行事で、その伝統は今も受け継がれています。
祭り当日には南砺市福光地区住民の厄年男性が重さ約1トンの御神輿を担ぎ、丸1日かけて約11kmを巡行します。桜の中を行く黄金色の神輿と男たちの勇壮な姿は必見です。
25歳、初老42歳、還暦61歳の厄年男性メンバーでおみこしを担ぎます。近年、少子化のために、25歳・42歳の前厄と後厄の方も担ぎ手に参加協力しています。
例年4月15日に行なわれていましたが、ここ近年は4月の第3日曜に替わったようです。実は、当館店主は福光出身で過去三回の厄年に担ぎ手として参加しています。比較的身長が高い店主は、みこしを担ぐときの負担が大きく肩が真っ赤に腫れた経験を持っています。
≪神輿巡行≫
午前7時45分 福光宇佐八幡宮を出発し福光町内を巡行
午後8時頃 福光宇佐八幡宮にお着き
≪庵屋台巡行≫
午後1時頃 南砺市中央図書館前にて3町内(東町・西町・本町)の屋台が集合
午後1時20分頃 南砺市中央図書館前を出発し福光町内を巡行
午後7時頃 国道304号線東町交差点(富山第一銀行福光支店前あたり)にて解散、各町内に帰る
※五宝町の庵屋台は巡行には参加しませんが、五宝町「知源寺」前駐車場にて飾り屋台として陳列します。
※激しい雨天の場合は、巡行を中止します。
第24話 悠久のオベリスク」に登場した「端池(みづち)祭り」の原型は、当地の「矢つぎ火祭り」であると推測しています。
矢つぎ火祭りは「湖畔荘」の藤井英雄氏がリーダーとなり、加藤伸治氏(合掌かずら)、中田修氏(自遊の森)、武田彰(万水閣)等の他、南原地区住民で会社員の神田清氏等当時40代バンド経験者仲間が「地域を盛り上げる為に何か行おう。」と昭和56年に活動を始めたのがきっかけです。
桜ヶ池周辺地区(現南砺市立野原東及び立野原西地区周辺)は、明治時代原野だったのを南原地区(現南砺市南原)等の住民が開拓してできた農地です。その為、旧城端町(平成大合併前の名称)の一部でしたが行政サービス面では冷遇されており、郵便局の特殊配達地域に指定された「へき地」扱いでした。具体的には週1~2回の配達しかなく、新聞は三日分まとめて郵便局から配達された地域だったのです。冬場の除雪も当地区は3日に一回の除雪しか行って貰えませんでした。この様な背景など様々な要因から地域を盛り上げる為に団結し「矢つぎ火祭り」が始まりました。
西暦 | 和暦 | 経過内容等 | |
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開催前年 | 1981年 | 昭和56年 | 南原地区の常会(自治会の集会)出席者の代替わりが進み、名前も顔もどこに勤めているかもわからない状態であった。お互いに顔見知りになるため南原青年会を発足し毎月飲み会を始めた。親しくなるにつけ何か行動しようと成る。 昭和50年代城端町の各商店街は7月下旬に夜店を開いていた。そこで来年度桜ヶ池広場で地域親睦の為に夜店を開くことを決めた。青年会は桜ヶ池にて営業している料理店と新しく開拓団入植者として加わった新住民との共通点は「水」であり、「水」なくしては、営業できない、作物が育たない。「水が一番大切だ」と導き出した。 |
第一回 | 1982年 | 昭和57年 | 昭和57年2月南原公民館にて、テーマを「水と光と音」と決め「矢つぎ火祭り実行委員会」を発足する。 ・「水」8月は水不足。雨乞いの神事として、桜ヶ池神社にて北野天満宮の利波肇(となみはじめ)宮司、山田郷総社新明宮の山田豊年(やまだほうねん)宮司両氏により執り行う。 ・「光」矢つぎ火(火矢)・松明(タイマツ)行進・花火・とうろう流し・池の中に浮かべた「大イカダ」に孟宗竹3,000本を担ぎ込み左義長の様に燃やした炎。 ・「音」龍神太鼓保存会を発足し、桜ヶ池に住まわれる水の神様、龍神(リュウジン)様を祭る。桜ヶ池広場では夜店とステージにてバンド演奏やカラオケを行う。昭和57年8月第1土曜日、第一回矢つぎ火祭り始まる。 |
矢つぎ火祭りは、近隣地域のイベントをヒントに行いました。桜ヶ池は、もともと「西原のため池」と呼ばれ、後に名称変更された経緯がございます。人口ため池で農業用水確保を目的に作られた経緯から「雨乞い」の神事を行う事と紐付ました。
灯篭流しは、水の神様の祭りと水難犠牲者供養のため行われる「千保川灯篭流し祭」(高岡市戸出地区)をモデルとしました。桜ヶ池には約250個の灯篭が浮かべられ、暖かな光が水面を幻想的に照らしました。また、太鼓演奏は、五穀豊穣を願う田まつりや観光祭として開催される「夜高祭」(南砺市福野地区、砺波市庄川地区、小矢部市津沢地区)の夜高太鼓や、稲の病害虫を防ぐとともに農作物の豊作を
この間、第1回目(昭和57年)から4回目(昭和60年)は「合掌かずら」加藤伸治氏。 第5回目(昭和61年)から10回目(平成3年)は「湖畔荘」藤井英雄氏 第11回目(平成4年)から第12回目(平成5年)は「自遊の森」中田修氏が総指揮をとって開催されました。1年目と2年目は南原地区の住民やその親戚兄弟、上原地区の住民で町役場職員であった大浦章一氏等の地元有志、それに「合掌かずら」の加藤氏が中心となって企画運営しました。大成功で終わった「矢つぎ火祭り」は3年目には上原/上見/塔尾地区常会メンバーや婦人会も加わり年々益々盛り上がったそうです。
西暦 | 和暦 | 会長 | スタッフ | |
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第1回 | 1982年 | 昭和57年 | 加藤伸治(合掌かずら) | 南原住民及びその親戚兄弟に加え、上原地区大浦章一氏、山下謙二氏、大浦静夫氏が参加。搭尾地区からは、加門俊之氏、水本喜一氏。上見地区からも中山国光氏、池田又二郎氏や山田重雄氏。等4地区の有志が集って実行。 |
第2回 | 1983年 | 昭和58年 | 加藤伸治(合掌かずら) | 同上 |
第3回 | 1984年 | 昭和59年 | 加藤伸治(合掌かずら) | 南原地区だけでは運営人員不足の為、上原/上見/搭尾の3地区常会メンバーとその婦人会にも加わって頂く。 |
第4回 | 1985年 | 昭和60年 | 加藤伸治(合掌かずら) | 地域住民に広がり正式に4地区で行事をとり行う事となった。これにより4地区民の親近感を造り出していった。 |
第5回 | 1986年 | 昭和61年 | 藤井英雄(湖畔荘) | 4地区民参加で盛り上げる。 |
第6回 | 1987年 | 昭和62年 | 藤井英雄(湖畔荘) | 同上 |
第7回 | 1988年 | 昭和63年 | 藤井英雄(湖畔荘) | 同上 |
第8回 | 1989年 | 平成元年 | 藤井英雄(湖畔荘) | 同上 |
第9回 | 1990年 | 平成2年 | 藤井英雄(湖畔荘) | 同上 |
第10回 | 1991年 | 平成3年 | 藤井英雄(湖畔荘) | 同上 |
第11回 | 1992年 | 平成4年 | 中田修(自遊の森) | 同上 |
第12回 | 1993年 | 平成5年 | 中田修(自遊の森) | 同上 |
1994年 | 平成6年 | 矢つぎ火祭りは、役員とスタッフのボランテア(手弁当・無料奉仕)高齢化により中止に至る。 |
一方、運営資金面では非常に厳しい予算で行っており、町役場課長以上及び町議会議員や地元住民等の寄付で運営されていました。旧城端町の助成金無しで運営した事は今でも称賛に価する事です。ピーク時には3,000人の集客があったそうです。この様な大きなイベントであった為、スタッフは100名を超える規模にまで発展しました。しかし、メンバーの高齢化と共にその負担の大きさから中止になった歴史的背景がございます。