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桜ヶ池

桜ヶ池の桜

桜ヶ池の桜

 開花は、最初4月10日~15日頃に近畿豆桜(キンキマメザクラ)が小さくて可憐な花を咲かせます。4月15日頃からは染井吉野(ヨメイヨシノ)が咲き、少し遅れて八重桜(ヤエザクラ)が楽しめます。
 初めて桜ヶ池へ来られる方は「池がどこにあるのかなぁ~?」と思いながら坂を登り切ります。すると正面の山一面に桜が雄大に咲き誇り池の水面に桜が反射する風景は、心を揺さぶります。
 桜が反射する湖面を眺めながら人気のソフトクリームを食べるのも良し、公園の桜の下で遊びまわる元気な子供たちの姿を見ながらお弁当を広げるのもいいものです。周囲約4kmの桜ヶ池の周りには約2,000本の桜が植えられており、一時間かけてゆっくり自然を楽しみながら散策するのはリフレッシュにもなります。

初秋の雨に煙る桜ヶ池(10月上旬)

初秋の景色

雨に濡れた木々の緑が湖面に映りとても美しい。雨の桜ヶ池は人気も無くとても静かです。都会の喧騒を離れて静かなひと時をお過ごし下さい。

紅葉の桜ヶ池(11月上旬)

紅葉の景色

紅葉が色付き始める時期です。これからさらに紅葉の色が濃くなります。日差しがあると暖かい日中に美しい紅葉を是非見に来てください。

初観雪の袴腰山と桜ヶ池(11月中~下旬)

初観雪の袴腰山と桜ケ池

針葉樹と広葉樹と遠くに見える袴腰山の雪景色のコントラストがとても美しいです。湖面に映る紅葉も美しく、この時期の景色は絶景です。

初観雪の南砺市の山々と桜ヶ池(11月中~下旬)

初観雪の南砺市の山々と桜ケ池

写真では伝わりにくいですが、山が高く迫ってとても雄大な景色です。

初雪の桜ヶ池(12月上旬)

初雪の桜が池

朝日に輝く、初雪の桜ヶ池です。湖面には少しですが、気嵐(けあらし)も見えます。日の出直後で全体が青味がかって神秘的です。富山では、冬に雷が鳴ります。富山ではこの冬の雷を「ブリ起こし」と言っています。ブリ起こしが鳴ると寒ブリのシーズン到来です。氷見の寒ブリを当館でもお料理にしてご提供いたしております。

桜ヶ池の四季折々の風景(スライドショー)

桜ヶ池を満喫できる南砺市の旅館 万水閣

桜ヶ池周辺散策マップ

散策マップ そよこの小径

桜ヶ池ができるまで

今私たちは、袴腰山麓一帯の水源涵養林と豊かな自然によって保たれた水の恩恵に浴し生活しています。そして、これを水源とする山田川は、流域の水田を潤し人々の暮らしを支えています。特に、先人によって「桜ヶ池」に水を貯め、水量が少ない夏などには水田のかんがい用水として用水路や山田川に放水することによって、干ばつにあうことなく豊かな農業生産に貢献しています。

 大正末から昭和初期、富山県はたびたび干ばつに見舞われている。農業用水の流量が季節的に大きく変動する地域や、河川からの取水が困難な地域では、水不足に悩まされ、干ばつのたびに水争いが起こった。

 初代山田川沿岸用水改良区理事長村井口仁志(イノクチニシ)氏と北山田村長古嶋理作氏(明治十三年ー昭和二十七年)を中心に富山県庁へ日参し、桜ヶ池(西原ため池)工事着工までの過程で両氏はトナミ山田川上流に堰堤(えんてい)を造ることを訴えて、県耕地課の重い腰あげさせ、また、南山田、広塚、東石黒の各村に働きかけ山田川沿岸水利補給事業同盟の設立(昭和11年11月17日)にまで漕ぎつけた。

 旧南山田村、旧北山田村を中心とする山田川左岸では、小矢部川支流の山田川の水をかんがいに利用しており、27ヶ所の取り入れ口があった。四月の融雪期を除いて流量が少ないため、恒常的な水不足に悩んでいた。ポンプ機により井戸水から揚水しかんがい用水としてしのいでいた。昭和10年前後から、山田川沿岸のあちこちで見られるようになった。昭和14年(1939)に富山県が調査したところによれば、南山田の各地に21台、北山田には51台もの揚水ポンプが設置されていたという。揚水によるかんがいは、各地区ごとに独自で行っていたため、夏には毎年深刻な水不足に悩まされ、混乱と紛糾がたえなかった。

 ここに至り流域農民は、北山田村井口仁志(イノクチニシ)氏を中心に「 ため池 」建設期成同盟会を結成、山田川に堰堤を築きダム湖を作る計画を立てた。県に適地調査を依頼しましたが、調査の結果、この計画は当時の技術では不可能であることが判明、山田川一帯に適地が見当たりませんでした。

 諦めきれない井口氏らは、川上からトンネルを掘り引水し立野ヶ原演習場内(日本陸軍第9師団野砲演習場)の適地「西原谷」にため池を設け再び山田川へ放水する計画を立て陸軍に嘆願いたしました。候補地域は陸軍演習地の重要な位置にあり交渉は困難を極め不可能とさえ思われました。

 しかし、水不足を切々と訴える最中の昭和14年(1939)再び大干ばつが流域を襲いました。食糧がなければ戦いは出来ない。陸軍は、現地調査のうえ遂に「 西原 ため池 」建設を許可しました。

流域農民は、昭和15年(1940)ため池建設の母体となる耕地整理組合を設立、代表に井口仁志氏を選任、悲願の干ばつ脱却を目指し昭和16年(1941)ため池建設が県営事業として始まりました。工事は、戦時中兵役による人手不足に加えて陸軍の実弾演習があり遅々として進まず難航し終戦を迎えました。戦後も食糧増産は、最大の国家目標であり工事は細々と再開されましたが、昭和24年(1949)水害復旧工事に使用されていたブルドーザーなどの大型土木機械を相次いで投入、突貫工事により、昭和28年(1953)、13年の歳月をかけ「農業用ため池」が完成、悲願成就となりました。

 海抜229㍍の湖面、満々と水を湛える桜ヶ池は、こうした先人のたゆまぬ努力と熱意を私達に伝えています。時代は大きく変わりましたが、水なくして、食料なくして人は生きることはできません。この地を守り農業の振興こそ先人の期待に応えることではないかと思います。

桜ケ池神社

県定公園であり「全国ため池百選」に認定されています

 桜ヶ池周辺は、いまや県定公園となり、池の周辺には遊歩道が整備され、里山特有の生態系がみられる自然豊かな場所になつています。また、ハイウェイ・オアシスに隣接、四季を通じ人々の憩いの場所として地域活性化に重要な役割を果たしています。

 平成22年(2010)「全国ため池百選」に認定されました。

井口仁志

井口仁志(イノクチ ニシ 1875~1963)氏について

現在、溜池所在地の西原谷に井口仁志氏が北山田村梅原小杉地区への用水源として造った。

この西原谷は、当時「陸軍の立野ケ原演習場」の中央に位置し金沢第9師団が管理

梅原小杉地区は、地下水の湧水でほとんどが湿田と半湿田で、馬も入れぬヘドロ層。

中には条件の悪い耕地が放棄されたり、小作を辞退する人も、しかも耕地整理には、県営で補助金10℅地元負担は90℅。貧乏人には出来ないと反対する人もあったが、井口氏は「私はここを働き甲斐のある田畑にしたい」と住民の説得に努力された。又、代替え地を用意し、溜池造成の確保のため、何度も陸軍に足を運ばれました。

昭和15年8月 県営山田川沿岸用水補給事業として不可能とおもわれていた計画がようやく認可
昭和16年7月 起工式(発起以来6年ぶりに着手)
昭和16年12月  太平洋戦争に突入
昭和20年  戦後工事再開 新鋭の土木機械も投入アメリカのブルドーザーやキャリーオールスクレイパーによる盛土搬出ダービンググロラーで盛土を締め固め工事は急ピッチで進む
昭和29年 すべての工事を終えて、145万トンの水を貯めえる桜ケ池 誕生(現在は貯水池の役目と共に公園となりレクレーションのお客様を楽しませています。)
昭和33年  秋  井口仁志氏の功績を永く後世に伝えんとして桜ヶ池湖畔に「翁の寿像」を建立(井口仁志翁の功績を讃え碑文を松村謙三氏記す  銅像 松村秀太郎氏作)

桜ヶ池の湖底のはなし

西原ため池(現在の桜ヶ池)

 桜ヶ池のあるこの一帯を西原谷といい西原集落があった。砺波山田川の支流大井川の源流地区でもある。

地元呼称 西原谷(ニシバラダン)

明治5年 西原村 戸数22戸 (富山県史 記載)

明治29年 金沢市に 陸軍省 第9師団 新設

大正9年 西原地区には東村(高台 現 湖畔荘周辺)と西村(谷間・池の底)に分かれていた。

明治30年代 最盛時24戸が存在した。しかし陸軍の演習場となり、砲撃が始まる31年頃から移転が始まった。北海道や京都などへ転出移転が始まった。

(大正9年11月26日記  中川重太郎氏保存)記録が残つている。

桜ヶ池左岸道路沿いにある「又八の清水」は、この付近(背戸山5-6)に避難していた山崎又八の名から由来したものと。先氏の記述にある。

又八の清水

又、場所島853にあった村社 神明社はため池工事着工前。昭和16年3月に野口の村社稲荷神社に合祀され、西原村共同墓地(向山28-2,28-3)であった中の島に昭和34年3月に改良区によって桜ヶ池神社が造立されたと記述がある。

明治30年代から、砲撃に晒されて避難転出、大正9年の強制移転。祥は昭和初期になって築ため池による登記上からのも消滅等数奇の運命を辿った西原地区。西原という村名、場所島の瀬戸山、向山の名も人々の記憶から消えて「桜ヶ池」となっている。

一世紀の歳月の流れを感ぜずにはおられない。

                                 桜ヶ池竣工50周年記念誌より

是ヶ谷と是ヶ谷地蔵様の由来

地元呼称 是ヶ谷(コレガダン)

 この地蔵様は釈迦如来の座像にて菩提樹のもとにて説法をお解けの姿なり 明治三十一年九月大西村是ヶ谷集落(九戸)の守護仏として字是ヶ谷弐千七百三十二番地に庄川金屋村著名彫刻師森川栄次郎彫刻に依り之を建立する。

 堂石は樋瀬戸土沼産の原石にして隣村七曲住人も援助合力に依り運び上見村の石工小助の作なり。

 幾度かの軍用地拡張買収、解村等の変還に遭い文化財遺跡として昭和四十八年立野ヶ原農用造成に伴い現地に移祀安置する。

 陸軍の立ち退き要求に居座る是ヶ谷住民に軍は地蔵様に向かっての威嚇射撃をした。

地蔵様の堂にたくさんの弾痕や銃弾で貫通した穴が二か所あり。

是ヶ谷地蔵

 

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